![]() | 読書からはじまる (2001/06) 長田 弘 商品詳細を見る |
「読書からはじまる」
本というのは「本という考え方」です。
本についてのいちばん重要なことは、本は「本という考え方」をつくってきたものであるということ。
いい本というのは、そのなかに「いい時間」があるような本です。読書といういとなみがわたしたちのあいだにのこしてきたもの、のこしているものは、本のもっているその「いい時間」の感触です。
本を開けると、初めに始まりがあり、最後におしまいがあります。始まりがあって終わりがあるというのは、人間の生き方そのものです。
わたしたちは日本という国に生まれたと思っていますが、そうではなく、日本語とう言葉のなかに生まれたのです。言葉のなかにうまれてことばのなかで育ってゆくのが、人間です。
わたしたちにとって、今いちばんゆたかでないものは、言葉です。言葉がゆたかでありません。
問われるのは、自分は言葉をどうゆたかにできるか、なのです。限られた言葉にどれだけ自分を豊かにこめられるかが、言葉にとっては重要なのです。
21世紀という時代には、これまでのように、歳をとればとるほど完成してゆくということがもはやのぞまれなくなるという問題に、遅かれ早かれぶつかります。
何より考えたいことは、21世紀という時代になっても、「初めに言があった」というこの世のあり方というのは、じつはかわっていないということです。
人間は言葉のなかにうまれて、言葉のなかに育つのであり、そうして、言葉のゆたかさを手に入れた人だけが幸いな人であるだろうという事情は、何一つ変わっていない。ただ、わたしたちがそのことに知らんふりしているだけです。
「ヨハネによる福音書」の冒頭の一行は、「初めに言があった」です。
江戸時代の古訳では 「ハジマリニ カシコイモノゴザル」
明治維新後の明治訳では 「太初(はじめ)に道(ことば)あり」
となります。どちらも、すごくいい和訳です。
言葉は意味がすべてではなく、言葉によって指し示されるべき、心の方向のことです。自分のことばがどんな自分を表しているか、ということです。言葉というものをどう結んでゆくかとういう言葉にむきあう態度、一つだけです。
読書というのは、実を言うと、本を読むことではありません。読書というのは、みずから言葉と付きあうことです。自分の心のなかに失いたくない言葉の蓄え場所をつくりだすのが、読書です。
〜本文にでてくる〜
『リトルジョンの静かな一日』(ハワード・オーウェン著)にホロリとしました。
『鶏の卵ほどの穀物』(トルストイのロシア民話集「イワンのバカ」のなかの一編)、文明のあり方に対する痛烈な逆説に…う〜ん、ソウカ…成る程でした。
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この記事へのコメント
コメントありがとうございます。
ブログをはじめて1月ほどですが、このところ読書について「こんなんで良いのかなな」という疑問がわいてきます。「正しい読書」といったらおかしいのですが、これでいいのかなあという疑問です。そんな気持ちがこの本を読ませました。
書くことについては、私の場合も読むことの数倍の時間がかかります。それでいて時間に追われ納得しないままupしている状態です。このことも自分にはは引っかかっています…。この折り合いが難しいです。
ブログをはじめて1月ほどですが、このところ読書について「こんなんで良いのかなな」という疑問がわいてきます。「正しい読書」といったらおかしいのですが、これでいいのかなあという疑問です。そんな気持ちがこの本を読ませました。
書くことについては、私の場合も読むことの数倍の時間がかかります。それでいて時間に追われ納得しないままupしている状態です。このことも自分にはは引っかかっています…。この折り合いが難しいです。
2008/05/16(金) 02:51:33 | URL | 「ふーこ」 #-[ 編集]
こんにちは。YO-SHIです。
この本は読んだことないのですけれど、「言葉」について思うことがあるので...
私も読書ブログをやっているのですが、記事を書くのにすごく時間がかかります。「自分の思い」を伝えるピッタリの言葉がなかなか見つからないのです。
その言葉でないとちゃんと伝わらない、吟味した言葉を使わないと...そんな気がしてしまうんです。
この本は読んだことないのですけれど、「言葉」について思うことがあるので...
私も読書ブログをやっているのですが、記事を書くのにすごく時間がかかります。「自分の思い」を伝えるピッタリの言葉がなかなか見つからないのです。
その言葉でないとちゃんと伝わらない、吟味した言葉を使わないと...そんな気がしてしまうんです。




